1: 2026/09/29(火) 16:58:16.70 ID:uVDQELuY9
そろそろタトゥーの是非に決着をつけるべき時なのかもしれません。関連するニュースが報じられるたびに正論の名を借りた拒否反応が一斉に噴出する。こうした現代の市民社会の傾向は、一体どんなメンタリティーを示しているのでしょうか?

(中略)



Ayaseが自身の肉体を多種多様なデザインの彫り物で埋め尽くすことは、確かにある人から見たら余計なことかもしれない。▼ 続きを読む▲ 閉じる「清潔感がなくなるからよせばいいのに」という心配をする人もいるかもしれない。



しかし、このマイナスにしか思えない行動であっても、それを選び取る個人の意志こそが、まさにこの愚行権という市民社会の認める自由によって保障されているのです。



つまり、ミュージシャンのタトゥーを目にして不快だからと言って、「やめろ」とか「テレビへの出演を規制すべきだ」というのは、この自由を侵す可能性のある越権行為だと認識する必要があります。



それを踏まえて、筆者はAyaseのタトゥーを素晴らしいと感じます。なぜなら、それがYOASOBIの音楽性やブランドイメージを補強するどころか、むしろ逆の方向に作用しかねないのに、それでもあえて彼はタトゥーを入れる自身の存在を世間に晒しているからです。つまり、YOASOBIという、いわばJ-POPという政策的な公共事業の筆頭的な存在でありながら、その中でなお個人の権利を強烈に主張する余白としてのタトゥーなのです。



たとえば、YOASOBIがハードコアでアンダーグラウンドな音楽を作っているのならば、Ayaseのタトゥーはそれと同じ方向性で埋没していったでしょう。



しかしながら、9月28日から放送中のNHK朝ドラ『ブラッサム』の主題歌も担当し、紅白への出場もほぼ確定と言われているなかで、批判が起こることを承知のうえで刻み込まれたタトゥーには、最大公約数的に愛される音楽とは別のメッセージが宿ります。それは、公共放送の朝を彩るメロディを作る人間だからといって、見た目にも明白に好人物でなければならない必然的な理由はあるのだろうか?という問いかけです。



作品と人物、人格を、世間の納得するようにすり合わせなければならないと、一体どこの誰が決めたのだろうか?という冷ややかな怒りです。



愚かさの極みとされるAyaseのタトゥーは、こうして市民が勝手に積み上げる圧力の度合いに比例して増殖していっていると言ったら、皮肉が過ぎるでしょうか。



ただし、遅かれ早かれ、彼の肉体には新たな彫り物を入れる余白がなくなります。そのとき、社会の空気はどんなものになっているでしょうか。



一見、幼い反抗にしか見えなくとも、Ayaseは、身をもって愚行権のありがたみを説いているのです。



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2: 2026/09/29(火) 17:15:13.52 ID:YZSrkz0o0
そろそろ顔面やりだすな
3: 2026/09/29(火) 17:06:02.32 ID:fNxNs3qL0
首まではいってると怖いよな