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https://news.yahoo.co.jp/articles/2720f27f9e72ad80596060a2deb613790158acf9
4/29(水) 10:30
1990年代前半、「世界が終るまでは…」などのヒット曲で音楽チャートを席巻したバンド「WANDS」。91年にデビューしたこのバンドで、上杉昇さんはボーカルとして脚光を浴びた。だからこそ、デビューから6年後に決断した突然の脱退は、多くのファンに衝撃をもって受け止められた。2026年にデビュー35周年を迎える上杉さんが、なぜWANDSを去る決断に至ったのか。▼ 続きを読む▲ 閉じる華やかな成功の裏で人知れず抱えていた葛藤と、歌い続ける現在の心境について語った。(全2回の2回目/前編から続く)
■ロックと呼べない音楽は自分の“恥部”と思っていた
――数あるヒット曲の中でも、1992年リリースの中山美穂さんとコラボレーションした「世界中の誰よりきっと」は累計200万枚超と大ヒットし、「演奏 WANDS」として同年のNHK紅白歌合戦にも出場されました。
自分が世の中に知られるきっかけとなったのは、間違いなく美穂さんとの曲があったからです。一緒に歌ってくださって、恩人のように感じています。2024年12月に54歳で急逝されたときはびっくりしました。紅白のとき、主役はもちろん美穂さんで、僕はバックバンドの扱いだったので、「もしMCに振られたら助けてください」とお願いしていたんです。実際にMCに振られたときには助けてくださって。この歌だけでのお付き合いでしたが、芸能界の先輩として守ってくださったし、今でも非常に感謝しています。
ただ若かったあのころは、自分がやりたかった、ロックと呼べるようなものを表現できていないと、自分の恥部のように思ってしまっていました。この過去を払拭したいという思いがとても強かった。世間のイメージと僕自身の考えのギャップを消化しきれなかったんです。
――1994年リリースの「世界が終るまでは…」が最後のミリオンヒットとなり、これ以降、音楽性は変化していきました。
「世界中の誰よりきっと」の影響力もものすごく強くて、たとえば渋谷公会堂とか中野サンプラザとかで、ステージに出ていくと歓声が超音波みたいなんです。自分が追求していた音楽からすると、僕が望んでいた、想像していたものとは大きな開きがあった。
このイメージを塗り替えるには、同じフレーズを使ってロックといえるようなものを残すしかないと考えました。だから紅白から1年半後の「世界が終るまでは…」は、タイトルを先に決めたんです。それまでの、望んでいなかった僕を作り上げてきた「世界」を終わらせたかったから。
――その後、97年にWANDSを脱退されます。
「世界が終るまでは…」を出す直前の94年4月に、敬愛していたNIRVANA(ニルヴァーナ)のカート・コバーンが亡くなり、自死ともいわれました。そのとき、彼の曲や歌詞、悲鳴のような叫びが、妙にリアルに生々しく感じて、「何やってたんだろう、俺は」「自分のスピリットを何も残せていない」と。それが脱退を決めるきっかけでした。だから、カート・コバーンが亡くなっていなかったら、迷いながらもWANDSを続けていたんじゃないかなと思います。
続きはソースをご覧ください
4/29(水) 10:30
1990年代前半、「世界が終るまでは…」などのヒット曲で音楽チャートを席巻したバンド「WANDS」。91年にデビューしたこのバンドで、上杉昇さんはボーカルとして脚光を浴びた。だからこそ、デビューから6年後に決断した突然の脱退は、多くのファンに衝撃をもって受け止められた。2026年にデビュー35周年を迎える上杉さんが、なぜWANDSを去る決断に至ったのか。▼ 続きを読む▲ 閉じる華やかな成功の裏で人知れず抱えていた葛藤と、歌い続ける現在の心境について語った。(全2回の2回目/前編から続く)
■ロックと呼べない音楽は自分の“恥部”と思っていた
――数あるヒット曲の中でも、1992年リリースの中山美穂さんとコラボレーションした「世界中の誰よりきっと」は累計200万枚超と大ヒットし、「演奏 WANDS」として同年のNHK紅白歌合戦にも出場されました。
自分が世の中に知られるきっかけとなったのは、間違いなく美穂さんとの曲があったからです。一緒に歌ってくださって、恩人のように感じています。2024年12月に54歳で急逝されたときはびっくりしました。紅白のとき、主役はもちろん美穂さんで、僕はバックバンドの扱いだったので、「もしMCに振られたら助けてください」とお願いしていたんです。実際にMCに振られたときには助けてくださって。この歌だけでのお付き合いでしたが、芸能界の先輩として守ってくださったし、今でも非常に感謝しています。
ただ若かったあのころは、自分がやりたかった、ロックと呼べるようなものを表現できていないと、自分の恥部のように思ってしまっていました。この過去を払拭したいという思いがとても強かった。世間のイメージと僕自身の考えのギャップを消化しきれなかったんです。
――1994年リリースの「世界が終るまでは…」が最後のミリオンヒットとなり、これ以降、音楽性は変化していきました。
「世界中の誰よりきっと」の影響力もものすごく強くて、たとえば渋谷公会堂とか中野サンプラザとかで、ステージに出ていくと歓声が超音波みたいなんです。自分が追求していた音楽からすると、僕が望んでいた、想像していたものとは大きな開きがあった。
このイメージを塗り替えるには、同じフレーズを使ってロックといえるようなものを残すしかないと考えました。だから紅白から1年半後の「世界が終るまでは…」は、タイトルを先に決めたんです。それまでの、望んでいなかった僕を作り上げてきた「世界」を終わらせたかったから。
――その後、97年にWANDSを脱退されます。
「世界が終るまでは…」を出す直前の94年4月に、敬愛していたNIRVANA(ニルヴァーナ)のカート・コバーンが亡くなり、自死ともいわれました。そのとき、彼の曲や歌詞、悲鳴のような叫びが、妙にリアルに生々しく感じて、「何やってたんだろう、俺は」「自分のスピリットを何も残せていない」と。それが脱退を決めるきっかけでした。だから、カート・コバーンが亡くなっていなかったら、迷いながらもWANDSを続けていたんじゃないかなと思います。
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2:
やりたくない音楽で人気が出て
やりたい音楽で人気が消えていったのは皮肉だな
やりたい音楽で人気が消えていったのは皮肉だな
3:
ラブソングが嫌で仕方なかったらしいね