1: 七波羅探題 ★
東洋経済8/31 07:00
「道頓堀は様変わりした」
大阪屈指の歓楽街・道頓堀。しかし近年、地元では街の変化を指摘する声が頻繁に上がるようになった。いったい今、何が起こっているのか。
■最後の劇場「大阪松竹座」閉館が意味する“街の終焉”
南海電気鉄道・なんば駅から御堂筋を北へ約600m。道路の右手に、精肉店であり、すき焼き店でもあり、レストランなども併設している「はり重道頓堀本店」のモダンな和洋折衷の建物が見えてきた。同店を角にして御堂筋と交差する道頓堀筋を右に曲がると、姿を見せるのが「大阪松竹座」である。
大阪松竹座は、1923年に日本初の鉄筋コンクリート造の洋式劇場としてオープン。当初は映画と演劇、松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)のレビューなどが上演されていたが戦後は映画のみとなり1997年には歌舞伎や新劇、ミュージカルやコンサート、落語会も開かれる劇場として生まれ変わった。
そんな大阪松竹座も2026年5月26日に閉館。前年の8月に閉館のニュースが広まると、惜しむ声が上がる。それは、単に長く親しまれた劇場がなくなるということだけではなく、道頓堀に劇場がなくなるという事実が、道頓堀界隈のみならず、大阪の文化史に大きな意味をもたらすからだ。その意味を説明する前に、道頓堀の歴史をさかのぼってみたい。
道頓堀はもともと、1612年に成安道頓が開削を始め、1615年に完成した運河である。その後、船場にあった芝居小屋が移築され、明治以降は浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の「道頓堀五座」が格式を誇った。近世から昭和にかけ道頓堀は歌舞伎や浄瑠璃、軽演劇が上演される「芝居の街」として大阪屈指のにぎわいを見せていたのだ。
だが、昭和の終わりごろから平成にかけて、道頓堀五座は次々に閉館する。唯一残っていた劇場の大阪松竹座が閉館することは、単なる施設の終焉ではない。それは事実上、「大阪固有の文化空間」が完全に消滅したことを意味するのだ。
■1970年の大阪万博から始まった「ミナミの衰退」
では、道頓堀はどう変化したのか。現在の道頓堀は、外国人観光客に好まれる大阪の中でもトップクラスのインバウンドの街へと変貌している。だが「芝居の街」を終焉に追いやったのはインバウンドではない。繁華街としての衰退の波は、実は昭和の時代から少しずつ押し寄せていたのだ。
大阪の繁華街・歓楽街は大きく2つに分けられ梅田周辺のエリアを「キタ」、難波や千日前、道頓堀界隈を中心とするエリアを「ミナミ」と呼ぶ。道頓堀を含むミナミが大きな痛手を被った契機が1970年の大阪万博だ。万博が終わると大阪の街は、祭りのあとの寂寥を味わうこととなる。
大阪府北部の北摂地域(千里丘陵)では万博前からニュータウン開発が進んでいた。北摂地域へのアクセスは、阪急電鉄か国鉄(当時)。大阪市内で働きニュータウンへ帰る人々の憩いの場は、梅田駅(現・大阪梅田駅)と大阪駅を中心とする「キタ」へと移っていった。その影響を受けて進められた梅田周辺の開発は街に新しい息吹をもたらした。
一方、ミナミにも新しい動きはあった。「アメリカ村」の誕生だ。ウエストコースト・カルチャーに影響を受けた若者が、家賃の安い倉庫街にブティックや古着屋、喫茶店などをオープンさせたのが始まり。同時に、梅田やアメリカ村の存在は、道頓堀に「古臭い」という印象を与えてしまうことになる。
それでも道頓堀は大人の歓楽街として生きながらえた。五座のうち、朝日座と浪花座は映画館、角座は演芸、中座は歌舞伎や新喜劇といった演劇場、弁天座は2代目朝日座として文楽の劇場となる。中座や角座の向かいには、芝居の切符の手配や飲食の提供で見物客をもてなす芝居茶屋も残されていた。
■「怖い街」からの起死回生で、道頓堀にプールをつくる計画も
この頃の大阪の若者たちがどこで遊んでいたかというと、開発がますます進んだ梅田や道路整備のおかげで渋滞が緩和された郊外だ。ミナミであれば、アメリカ村か「ヨーロッパ通り」とも呼ばれた周防町、オシャレな店の多い鰻谷。バブル期に日本中を席巻したディスコ「マハラジャ」の1号店はミナミにあり、道頓堀筋の対岸の宗右衛門町に位置していた。こうなると、道頓堀は太刀打ちできなくなる。道頓堀の中心だった五座は前述のとおり、1984年から2007年にかけてすべて閉館に追い込まれたのである。
2000年代の道頓堀は、川の両岸に遊歩道(とんぼりリバーウォーク)を設置したり、水質改善に力を入れたりするなど新たな生き残りを模索。2012年には何とプールをつくる計画まで浮上した。
※以下出典先で
「道頓堀は様変わりした」
大阪屈指の歓楽街・道頓堀。しかし近年、地元では街の変化を指摘する声が頻繁に上がるようになった。いったい今、何が起こっているのか。
■最後の劇場「大阪松竹座」閉館が意味する“街の終焉”
南海電気鉄道・なんば駅から御堂筋を北へ約600m。道路の右手に、精肉店であり、すき焼き店でもあり、レストランなども併設している「はり重道頓堀本店」のモダンな和洋折衷の建物が見えてきた。同店を角にして御堂筋と交差する道頓堀筋を右に曲がると、姿を見せるのが「大阪松竹座」である。
大阪松竹座は、1923年に日本初の鉄筋コンクリート造の洋式劇場としてオープン。当初は映画と演劇、松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)のレビューなどが上演されていたが戦後は映画のみとなり1997年には歌舞伎や新劇、ミュージカルやコンサート、落語会も開かれる劇場として生まれ変わった。
そんな大阪松竹座も2026年5月26日に閉館。前年の8月に閉館のニュースが広まると、惜しむ声が上がる。それは、単に長く親しまれた劇場がなくなるということだけではなく、道頓堀に劇場がなくなるという事実が、道頓堀界隈のみならず、大阪の文化史に大きな意味をもたらすからだ。その意味を説明する前に、道頓堀の歴史をさかのぼってみたい。
道頓堀はもともと、1612年に成安道頓が開削を始め、1615年に完成した運河である。その後、船場にあった芝居小屋が移築され、明治以降は浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の「道頓堀五座」が格式を誇った。近世から昭和にかけ道頓堀は歌舞伎や浄瑠璃、軽演劇が上演される「芝居の街」として大阪屈指のにぎわいを見せていたのだ。
だが、昭和の終わりごろから平成にかけて、道頓堀五座は次々に閉館する。唯一残っていた劇場の大阪松竹座が閉館することは、単なる施設の終焉ではない。それは事実上、「大阪固有の文化空間」が完全に消滅したことを意味するのだ。
■1970年の大阪万博から始まった「ミナミの衰退」
では、道頓堀はどう変化したのか。現在の道頓堀は、外国人観光客に好まれる大阪の中でもトップクラスのインバウンドの街へと変貌している。だが「芝居の街」を終焉に追いやったのはインバウンドではない。繁華街としての衰退の波は、実は昭和の時代から少しずつ押し寄せていたのだ。
大阪の繁華街・歓楽街は大きく2つに分けられ梅田周辺のエリアを「キタ」、難波や千日前、道頓堀界隈を中心とするエリアを「ミナミ」と呼ぶ。道頓堀を含むミナミが大きな痛手を被った契機が1970年の大阪万博だ。万博が終わると大阪の街は、祭りのあとの寂寥を味わうこととなる。
大阪府北部の北摂地域(千里丘陵)では万博前からニュータウン開発が進んでいた。北摂地域へのアクセスは、阪急電鉄か国鉄(当時)。大阪市内で働きニュータウンへ帰る人々の憩いの場は、梅田駅(現・大阪梅田駅)と大阪駅を中心とする「キタ」へと移っていった。その影響を受けて進められた梅田周辺の開発は街に新しい息吹をもたらした。
一方、ミナミにも新しい動きはあった。「アメリカ村」の誕生だ。ウエストコースト・カルチャーに影響を受けた若者が、家賃の安い倉庫街にブティックや古着屋、喫茶店などをオープンさせたのが始まり。同時に、梅田やアメリカ村の存在は、道頓堀に「古臭い」という印象を与えてしまうことになる。
それでも道頓堀は大人の歓楽街として生きながらえた。五座のうち、朝日座と浪花座は映画館、角座は演芸、中座は歌舞伎や新喜劇といった演劇場、弁天座は2代目朝日座として文楽の劇場となる。中座や角座の向かいには、芝居の切符の手配や飲食の提供で見物客をもてなす芝居茶屋も残されていた。
■「怖い街」からの起死回生で、道頓堀にプールをつくる計画も
この頃の大阪の若者たちがどこで遊んでいたかというと、開発がますます進んだ梅田や道路整備のおかげで渋滞が緩和された郊外だ。ミナミであれば、アメリカ村か「ヨーロッパ通り」とも呼ばれた周防町、オシャレな店の多い鰻谷。バブル期に日本中を席巻したディスコ「マハラジャ」の1号店はミナミにあり、道頓堀筋の対岸の宗右衛門町に位置していた。こうなると、道頓堀は太刀打ちできなくなる。道頓堀の中心だった五座は前述のとおり、1984年から2007年にかけてすべて閉館に追い込まれたのである。
2000年代の道頓堀は、川の両岸に遊歩道(とんぼりリバーウォーク)を設置したり、水質改善に力を入れたりするなど新たな生き残りを模索。2012年には何とプールをつくる計画まで浮上した。
※以下出典先で
5: 名無しどんぶらこ
ほんましょーもないことですわ
製造業もっと頑張りましょ
製造業もっと頑張りましょ
6: 名無しどんぶらこ
黒門市場ももはや大阪の台所ではない